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ヨウコのゆるふわライフ

東日本大震災から10年|改めてふりかえる

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はじめに

あの311から今年で10年を迎えます。

私は内陸に住んでいるため、津波の被害には遭いませんでした。

ですので、沿岸地域にお住まいの方たちに比べたら被害は少ないものでした。

まもなく10年という節目を迎えるにあたり、私も当時撮影した被災地の膨大な数の写真をあらためて見ながら、今後気をつけていきたいことを考えています。

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震災までの防災意識の甘さ

今振り返ると、あの震災が起きるまでの我が家の防災対策はかなり甘いものでした。

三陸沖を震源とする大きな地震が来ると予測されていたにも関わらず。

今思えばもっと備えをしておくべきだったと反省することが多々あります。

防災訓練へ参加はしていた

震災前に自分自身で行っていたこととして、まずは町内会主催の防災訓練に参加し、地震体験車に乗車したことがあげられます。

詳しくはリンクをご覧いただきたいのですが、中にダイニングセットがありその椅子に座って揺れを体験します。

椅子にはシートベルトがついていました。

私は確か中学生の女の子2名と一緒に乗り、「阪神淡路大震災レベルの揺れ」を体験しました。

これが実際の地震ではないとわかっていても悲鳴がでました。

その地震体験車による大地震の揺れ体験が、東日本大震災で役に立ったかは、あいにくわかりません。

震災から10年の節目でもあり、本来であれば各地でそのような訓練が行われるところでしょうが、今年はコロナの影響により開催は厳しいでしょう。

今後、コロナも終息して防災訓練や被災体験などが開催された場合は極力参加したいものです。

震災前の非常用持ち物

  • 懐中電灯
  • ラジオ
  • 乾パン(実家の母から送られてきたもの)

この程度しか持ち合わせていませんでした。

非常用の食べ物も飲み物も我が家にはありません。

車のガソリンは“たまたま”震災の前に満タンにしたばかりでした。

かなりの備蓄をしている現在からは考えられないことです。

あの日はライフラインがすべて止まり寒い一夜を過ごしたわけですが、復旧のめどもなく本当に不安でした。

幸い、電気は比較的すぐに復旧しましたが、都市ガスは1カ月以上止まったままでした。

発災時は職場で仕事中

職場にて

午後2時46分、職場の自分のデスクで仕事中でした。

私の職場は医療機関です。

秘書業務をしていた私は別室で一人で作業をしていましたが、揺れが大きくなったため外来に飛び出してゆきました。

外来では院長が診ていた患者さんを机の下に入れ、自分も腰を低くした状態。

他のスタッフを見ると、カルテ棚を手で押さえようとしている人がいて、私は「危ない!すぐ離れて!」と叫んでいました。

壁に背をつけたまま揺れの収まるのを待ちました。

すぐに電気が消え、地震の規模が大きいことを物語っています。

その時点で「ただ事ではない」と感じはしましたが、それからどのような日々がやってくるのかは全く予測できませんでした。

結論から言えば、予想以上に苦痛をともなう日々が待ち受けていたわけです。

帰宅後

職場で倒れたものや壊れたものを急いで片付けて、院長の指示のもと職員は全員帰宅しました。

私は車通勤でしたが、信号はすべて消え、雪の舞うなかを慎重に運転して帰宅。

家の中には靴のままあがりました。

自宅は震災の1年前に引っ越しをし、その際に家具が転倒しないように固定してありました。

そのおかげで、食器棚など高い家具は転倒をまぬがれましたが、扉が観音開きだったものに関しては中身が飛び出していました。

キャスター付きのテレビ台とパソコンラックは部屋のなかを走った模様で、かなり位置が動いていましたが無事でした。

窓のサッシは施錠していたにも関わらず、数センチも開いていました。

息子が帰宅し、夫を迎えに行くので車のキーを貸してほしいとのこと。

その夜はテレビの情報もなく、かろうじて携帯のワンセグとラジオからの情報で、事は楽観できないことを知ることになります。

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身内の安否確認

実家の両親、伯父の安否がわからず

私の実家は県内の北に位置する市にあります。

その隣の市が「震度7」と聞き、「実家は倒壊したに違いない」と思いました。

なにしろ古い家屋でしたので。

震災直後、市内で連絡が取れたのは夫からのメールのみで、その後は固定電話も携帯電話も不通になりました。

ただ、遠方からのメールの送受信はできていて、私は名古屋の友人からのメールで「仙台空港が水没した」ことを知りました。

関西や関東に住む友人たちからのメールは届いていましたが、肝心の市内や県内の連絡網は完全に断たれてしまいました。

両親は実家に住み、伯父は施設に入所していましたが、3人の安否はそれから何日もわからないままでした。

両親は指定避難所にいたことがわかり、伯父の施設は新しく被害がなかったのですが電話の故障で連絡がつかない状態だったとわかったのはだいぶ後になってからでした。

関東在住の妹一家

全員無事なことをすぐに確認したのですが、どのような手段でわかったのか、今思い出せません。

そしてさっそく不便な生活が始まる

飲料水がない

夫と息子が給水車に並びました。

現在は最低でも2箱の水を備蓄しています。

携帯の充電が切れた

これも夫と息子が街中まで行き、充電サービスに並びました。

現在はモバイルバッテリーを持ち歩いています。

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全国各地の友人たちからの支援

佐川急便がいち早く業務を開始、しかし個人宅までは届けられず荷物が届いた人はこちらから事業所まで受け取りに行くというシステムでした。

東京、兵庫、愛知、北九州など遠方に住む友人たちが段ボールにたくさんのものを詰めて送ってくれました。

息子の運転で受け取りに行った日が昨日のことのようです。

なにしろ、我が家には備蓄品がほどんどなく、「食べるものがない」という現代では考えられないような経験をすることになります。

やはり人は痛い目に遭わないとダメなのでしょうか。

それまでも大きな地震を経験しているはずなのに、備えが甘く自業自得ともいえる不便な生活を送ることになりました。

続く…

食材王国みやぎプラザ

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